選挙の争点、以下、論説で、大事な争点を私は気づかせていただきました。
アベノミクスは、確かに成果は上がっていないと私は考えますが、選挙の争点にすべきは、それ以上に、従来の成長主義、効率主義、競争主義という価値観からの転換をどうするか?ということ。
********朝日新聞20160701***********************
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12435990.html
(異論のススメ)アベノミクスの前提 成長主義の妥当性こそ争点 佐伯啓思
2016年7月1日05時00分
民主的な選挙は、政党や個人が争点を掲げて争う。今日ではおおよそ与党系、野党系の政党が争点をめぐって相互に相手を批判しあうのが通例である。争点をめぐる争いは有権者にとって選択を容易にするということであろう。数年前に民主党が政権についたときの選挙はマニフェスト選挙といわれ、きわめて具体的な課題と実現可能なはずの政策手段が提示された。だがこのマニフェスト選挙に勝利した民主党政権の失敗により、さすがにマニフェストはなりをひそめた。しかし、それでも公約をめぐる争いとは民主政治の基本であるという認識は変わらない。
一応はそういってもよい。しかし、ここに実は大きな落とし穴がある。ある問題が争点として提示されると、そもそもそれがどうして争点になるのか、というその前提は見えなくなってしまう。さらには、争点化されない課題は、事実上、無視されてしまう。その上で、ひとたび争点として上程されてしまえば、後は、自己の主張の正当性を訴え、相手方をののしる、という「争い」が先行し、「争点」の「点」のあり方をめぐる論議などどこかへふっとんでしまう。確かにギリシャの昔からいわれたように、民主政治は「言論競技」に陥りやすい。
そして今回の参議院選挙でも私はその感を強くする。
*
現在進行形のこの選挙においては、アベノミクスの成否が主要論点のひとつとされている。ひとたびそれが争点になれば、双方とも、ひたすら「言論競技の法則」に従って、自己正当化と相手への批判の応酬になる。与党はアベノミクスの成果を強調し、野党はその失策を訴える。
アベノミクスの評価はいまは別にしておこう。ただそれを別にしても、確かなことは次のことだ。アベノミクスは、長期的な停滞に陥った日本経済の浮上をはかり、世界を覆う経済グローバリズムのなかで日本経済の競争力を回復し、再び成長軌道にのせることが目的だとされる。そして、この点においては野党も決して批判してはいないのである。
野党が唱えるのは、アベノミクスはその目的を達成していない、ということだ。つまり、日本経済の再活性化と成長軌道への復帰という目的が達成されていない、と批判する。所得格差の拡大による弊害が大きい、といっている。ではアベノミクスをやめるとして何があるのか、というと、その代替策はまったく打ち出せない。
一方、与党は、アベノミクスの成果を強調しつつも、それが当初のもくろみを実現できているかというと、まだ「道半ば」だという。つまり、期待通りの成果をあげていないという、にもかかわらず、さらなるアベノミクスの継続を唱えている。
与党、野党ともにまったく手づまりなのである。そして両党派とも、なぜアベノミクスが十分な成果をあげえないのか、という基本的な点を論じようとはしない。いったい、どうしたことであろうか。
根本的な問題は次の点にある。アベノミクスには、デフレを脱却し、グローバル経済のなかで競争力を確保すれば日本経済は成長する、という前提がある。だがこの前提は妥当なのだろうか。「失われた20年」といわれる。もしも「失われた」というなら、なぜそのような事態になったのであろうか。私には、それは小手先の政策論でどうにかなるものではないと思われる。停滞の20年をもたらした根本的な要因は、ひとつは、人口減少・高齢化社会への移行であり、ふたつめは、金融、ITによる急激なグローバル化である。人口減少・高齢化が現実的な事態になれば、当然ながら市場は拡大できない。高齢者への資産の偏在は消費を増加させない。また、グローバル化は企業を新興国との競争にさらすことで、物価とともに労働コストの圧縮をもたらす。つまりデフレ圧力となる。そして、そういう状況下にあって、国際競争力の確保という名目のもと、構造改革という市場競争主義路線を採用したのであった。
だからこうなるだろう。もしも「失われた20年」からの脱却と成長経済を目指すならば、少なくとも、人口減少・高齢化対策を打ち、金融グローバリズムから距離をとり、市場競争中心の構造改革をやめるべきである。
*
しかし、できることとできないことはあろう。人口減少・高齢化を食い止めることは難しい。グローバリズムもある程度は認めるほかない。おまけに、日本だけではなく、今日、世界中が先行き不安定で不透明な状態に宙づりにされている。英国のEU離脱をみても、米国の次期大統領候補をみても、中国の先行きを見てもそれは明らかで、この重苦しい不確実性が、個人消費も企業投資も伸び悩む理由のひとつとなっている。
とすれば、無理に、成長、成長といわずに、むしろ低成長を前提にする方が現実的であろう。そして私にはそれが悪いことだとは思われない。日本はすでに物的な財や資産という点ではかつてなく豊かな社会になってしまった。「失われた20年」なのではない。低成長へ移行するのは当然のことであろう。そして低成長経済は、過度な競争社会であってはならないし、グローバル経済に国家の命綱を預けるべき経済ではない。それは、従来の成長主義、効率主義、競争主義という価値観からの転換を要するだろう。その価値観こそが本当は争点とすべきことではないのだろうか。
◇
さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「反・幸福論」など
アベノミクスは、確かに成果は上がっていないと私は考えますが、選挙の争点にすべきは、それ以上に、従来の成長主義、効率主義、競争主義という価値観からの転換をどうするか?ということ。
********朝日新聞20160701***********************
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12435990.html
(異論のススメ)アベノミクスの前提 成長主義の妥当性こそ争点 佐伯啓思
2016年7月1日05時00分
民主的な選挙は、政党や個人が争点を掲げて争う。今日ではおおよそ与党系、野党系の政党が争点をめぐって相互に相手を批判しあうのが通例である。争点をめぐる争いは有権者にとって選択を容易にするということであろう。数年前に民主党が政権についたときの選挙はマニフェスト選挙といわれ、きわめて具体的な課題と実現可能なはずの政策手段が提示された。だがこのマニフェスト選挙に勝利した民主党政権の失敗により、さすがにマニフェストはなりをひそめた。しかし、それでも公約をめぐる争いとは民主政治の基本であるという認識は変わらない。
一応はそういってもよい。しかし、ここに実は大きな落とし穴がある。ある問題が争点として提示されると、そもそもそれがどうして争点になるのか、というその前提は見えなくなってしまう。さらには、争点化されない課題は、事実上、無視されてしまう。その上で、ひとたび争点として上程されてしまえば、後は、自己の主張の正当性を訴え、相手方をののしる、という「争い」が先行し、「争点」の「点」のあり方をめぐる論議などどこかへふっとんでしまう。確かにギリシャの昔からいわれたように、民主政治は「言論競技」に陥りやすい。
そして今回の参議院選挙でも私はその感を強くする。
*
現在進行形のこの選挙においては、アベノミクスの成否が主要論点のひとつとされている。ひとたびそれが争点になれば、双方とも、ひたすら「言論競技の法則」に従って、自己正当化と相手への批判の応酬になる。与党はアベノミクスの成果を強調し、野党はその失策を訴える。
アベノミクスの評価はいまは別にしておこう。ただそれを別にしても、確かなことは次のことだ。アベノミクスは、長期的な停滞に陥った日本経済の浮上をはかり、世界を覆う経済グローバリズムのなかで日本経済の競争力を回復し、再び成長軌道にのせることが目的だとされる。そして、この点においては野党も決して批判してはいないのである。
野党が唱えるのは、アベノミクスはその目的を達成していない、ということだ。つまり、日本経済の再活性化と成長軌道への復帰という目的が達成されていない、と批判する。所得格差の拡大による弊害が大きい、といっている。ではアベノミクスをやめるとして何があるのか、というと、その代替策はまったく打ち出せない。
一方、与党は、アベノミクスの成果を強調しつつも、それが当初のもくろみを実現できているかというと、まだ「道半ば」だという。つまり、期待通りの成果をあげていないという、にもかかわらず、さらなるアベノミクスの継続を唱えている。
与党、野党ともにまったく手づまりなのである。そして両党派とも、なぜアベノミクスが十分な成果をあげえないのか、という基本的な点を論じようとはしない。いったい、どうしたことであろうか。
根本的な問題は次の点にある。アベノミクスには、デフレを脱却し、グローバル経済のなかで競争力を確保すれば日本経済は成長する、という前提がある。だがこの前提は妥当なのだろうか。「失われた20年」といわれる。もしも「失われた」というなら、なぜそのような事態になったのであろうか。私には、それは小手先の政策論でどうにかなるものではないと思われる。停滞の20年をもたらした根本的な要因は、ひとつは、人口減少・高齢化社会への移行であり、ふたつめは、金融、ITによる急激なグローバル化である。人口減少・高齢化が現実的な事態になれば、当然ながら市場は拡大できない。高齢者への資産の偏在は消費を増加させない。また、グローバル化は企業を新興国との競争にさらすことで、物価とともに労働コストの圧縮をもたらす。つまりデフレ圧力となる。そして、そういう状況下にあって、国際競争力の確保という名目のもと、構造改革という市場競争主義路線を採用したのであった。
だからこうなるだろう。もしも「失われた20年」からの脱却と成長経済を目指すならば、少なくとも、人口減少・高齢化対策を打ち、金融グローバリズムから距離をとり、市場競争中心の構造改革をやめるべきである。
*
しかし、できることとできないことはあろう。人口減少・高齢化を食い止めることは難しい。グローバリズムもある程度は認めるほかない。おまけに、日本だけではなく、今日、世界中が先行き不安定で不透明な状態に宙づりにされている。英国のEU離脱をみても、米国の次期大統領候補をみても、中国の先行きを見てもそれは明らかで、この重苦しい不確実性が、個人消費も企業投資も伸び悩む理由のひとつとなっている。
とすれば、無理に、成長、成長といわずに、むしろ低成長を前提にする方が現実的であろう。そして私にはそれが悪いことだとは思われない。日本はすでに物的な財や資産という点ではかつてなく豊かな社会になってしまった。「失われた20年」なのではない。低成長へ移行するのは当然のことであろう。そして低成長経済は、過度な競争社会であってはならないし、グローバル経済に国家の命綱を預けるべき経済ではない。それは、従来の成長主義、効率主義、競争主義という価値観からの転換を要するだろう。その価値観こそが本当は争点とすべきことではないのだろうか。
◇
さえきけいし 1949年生まれ。京都大学名誉教授。保守の立場から様々な事象を論じる。著書に「反・幸福論」など